「コピーライティングに才能はいらない。答えは決まっているから」
かつて、正解でした。しかし、今は違います。
なぜなら、AIを使えば、蓄積されてデータ化されているコピーライティング的な文章は誰でも容易に出力できるようになったからです。
かつては、テンプレートやフォーマットを学んだ一部の人だけが使えていたので差別化になっていました。しかし、今は学ばなくても知らなくてもAIが勝手に出力する。いわば全員が偏差値60になり、その瞬間、60は平均になって価値を失ったわけです。
AIを使えば、金太郎飴コピーに収束するのは必然です。
聞き飽きた表現。予想できる展開。見たことのある煽り。
それらは読者にとって「あぁ、またこれか」という既読感でしかないのです。
先の展開が読めると冷める。
予期されるというのはコピーにおいてマイナスとなります。過去に同じようなコピーを見たことがあるということは、同じような結果、同じような効果が続くと予想されるため、貴重な時間を使ってまで読もうとしないものです。
その意味で、「このフォーマット、このテンプレート、このスワイプを使えば売れる!」と、かつては正義だった再現性が、今はリスクとなったのです。
裏を返せば、これからは、再現性のなさやテンプレート感のなさが競争力を生むようになるはずです。
再現性のないコピーこそがその人らしさや文体を形作り、個性や面白さに繋がっていく。だからこそ、他では読めなさが興味を持続させます。『こんな書きっぷり見たことないぞ?』この違和感や既視感のなさが興味を掻き立て、続きを読んでみようと思わせるのです。
「コピーは裏切りと意表がベースにある」
常識に思われていることが実は違った、もう通用しないという意外さが興味を生むわけです。
とはいえ、従来の裏切りももはや通用しにくくなってきます。なぜならば、「読者の期待を裏切って意外性を出しましょう」というテンプレートがすでに存在するからです。当然、その意外性の出し方自体がAIに再現できるものになってしまいました。
では、どうするか?
書き手自身の生の体験から来る、予測できない接続。これこそが非再現性を生むのです。
先日、野村萬斎さんの狂言を見に行ったのですが、この時まさにコピーライティングを感じました。
主役(シテ)とアド(脇役)の会話の掛け合いがコピーライティングだったのです。
シテの発言に対して、アドが絶妙にかぶせて喋りだす。このリズムが妙に心地良く、次へ次へと展開を期待させていました。そして、声のキー。まるで歌っているかのように、正確なピッチでの声出しが、違和感なく安心して聴いていられる。音楽を聴いているかのように、そのリズムに身を任せていました。
コピーライティングも同じです。
行間、タイミング、声のキーに相当する語り口のテンション。この丁寧な制御こそがライティングの肝です。
周囲のお客さんは狂言の面白さで笑っていたのですが、私は狂言とコピーライティングが繋がったことに笑ってしまっていました。
ライティングも狂言なのです。
この例のように、狂言とコピーライティングを関連付けて繋げること自体はAIでもできます。ただ、私がその接続に至ったのは、狂言を見に行こうと思った動機があり、その日の文脈があり、シテとアドの掛け合いを目の当たりにして身体で体験したという積み重ねがあったからです。
その接続が生まれるまでの、書き手固有の生き方の文脈が非再現性を作っているのです。
どんな体験もそれに至るまでの文脈がある。
その文脈が再現性のないコピーになるのです。

